テニアン島から飛来した米軍機B-29「エノラ・ゲイ号」によって人類史上最初に使用された原子爆弾は、この上空約600メ-トルでさく裂しました。爆心直下となったこの一帯は、約3,000度~4,000度の熱線と爆風や放射線を受け、ほとんどの人びとが瞬時にその生命を奪われました。時に1945(昭和20)年8月6日午前8時15分のことでした。
写真説明:現地点から見た北方の惨状 1945年11月 米軍撮影
02.本通商店街
爆心地から約250メートル
本通商店街は、当時、市内有数の繁華街としてにぎわっていましたが、人類史上最初の原子爆弾により瞬時に建物が倒壊炎上し、この一帯にいた人々のほとんどが死亡しました。
写真説明:向かって左から躯体だけ残った安田生命ビル、帝国銀行広島支店(現在の広島アンデルセン)と付近の惨状 佐々木雄一郎氏撮影
被爆75年 街並み再現 本通り <1> 理髪店主のアルバム
本通商店街は、当時、市内有数の繁華街としてにぎわっていましたが、人類史上最初の原子爆弾により瞬時に建物が倒壊炎上し、この一帯にいた人々のほとんどが死亡しました。
写真説明:向かって左から躯体だけ残った安田生命ビル、帝国銀行広島支店(現在の広島アンデルセン)と付近の惨状 佐々木雄一郎氏撮影
被爆75年 街並み再現 本通り <1> 理髪店主のアルバム
04.広島第二陸軍病院跡
広島第二陸軍病院(爆心地から約1キロメートル)
広島第二陸軍病院は、軍施設が立ち並ぶ基町地区北西端に建っていました。被爆当日、病院内には、職員330人、入院患者750人がいたとされていますが、一発の原子爆弾により 倒壊遠城し、多くの死傷者を出しました。
美しい桜並木が入院患者をなごませんた太田川の堤防には、わずかに残った職員がムシロやトタンを使って天幕を張り、臨時救護所を設置し、多くの負傷者の治療にたりました。
(太田川堤防に設置された臨時救護所 1945年(昭和20年)8月8日 河原四儀氏撮影)
広島第二陸軍病院は、軍施設が立ち並ぶ基町地区北西端に建っていました。被爆当日、病院内には、職員330人、入院患者750人がいたとされていますが、一発の原子爆弾により 倒壊遠城し、多くの死傷者を出しました。
美しい桜並木が入院患者をなごませんた太田川の堤防には、わずかに残った職員がムシロやトタンを使って天幕を張り、臨時救護所を設置し、多くの負傷者の治療にたりました。
(太田川堤防に設置された臨時救護所 1945年(昭和20年)8月8日 河原四儀氏撮影)
06.広島赤十字病院
爆心地から約1.5キロメートル
鉄筋コンクリート3階建のこの病院は 原子爆弾の強烈な爆風により外郭だけを残して破壊されました。 当時この病院の一部は 広島陸軍病院分院としても使用されていました。
地下室に置かれていたレントゲンフィルムがすべて感光したことにより、この爆弾が原子爆弾であることが立証されました。 被爆後 生き残った医師・看護婦は、救護を求めて集まってきた被災者に残されたわずかな医療資材を用いて治療を続けました。
写真説明:外郭だけを残す赤十字病院 1945年9月 川本俊雄氏撮影
鉄筋コンクリート3階建のこの病院は 原子爆弾の強烈な爆風により外郭だけを残して破壊されました。 当時この病院の一部は 広島陸軍病院分院としても使用されていました。
地下室に置かれていたレントゲンフィルムがすべて感光したことにより、この爆弾が原子爆弾であることが立証されました。 被爆後 生き残った医師・看護婦は、救護を求めて集まってきた被災者に残されたわずかな医療資材を用いて治療を続けました。
写真説明:外郭だけを残す赤十字病院 1945年9月 川本俊雄氏撮影
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