26.大河国民学校(現・大河小学校)

爆心地から約3キロメートル

1945(昭和20)年8月6日の原爆時、爆心から離れていたため登校児童などの被害は少なかったが校舎は半壊した。
被爆直後から校舎は被災者の救護所となり各教室・運動場・防空壕などには多数の負傷者がつめかけ、ありあわせの油、医療品で看護が行われた。しかし、死亡者が続出し、運動場では駐屯していた暁部隊の兵士の手で火葬された。

写真説明:救護所になった大河国民学校 撮影・菊池俊吉 1945年10月